名著『リトル・トリー』と著者フォレスト・カーターについて

Notes on "The Education of Little Tree" and its author, Forest Carter

 

 

上の写真は、ハマンダが一番好き「だった」、アメリカ先住民についての本。

ちなみに、ハマンダが泣いた唯一の本。

本題は、「リトルツリー」(原本タイトルはthe Education of Little Tree)

 

 チェロキー族の子供と祖父母の話で、時代設定は、先住民の子供が親元からアメリカ政府によって無理やり引き離され、「野蛮人の子の“文明化”や アメリカ社会同化政策」が行われていた時代。小説だが小説ではない部分もある歴史セミフィクションな小説だと(勝手に)思う。 アメリカ先住民の文化や生活、世界観に興味ある人はもちろんだが、なにより「教育」に興味がある人、携わっている人に読んでもらいたい名著と思います。こどもにとって一番の教育とは何なのか、何のためなのか、そしてこどもにとって一番の先生とはなんなのか… 読み終わるとそんなことを考えさせられます。

 と、自分で以前の読んだ後のノートには書いていた。

 

で、今日知ったのが、これ→ http://www.aritearu.com/Influence/Native/NativeBookPhoto/LittleTree.htm

自称チェロキー族で、この本は自分の自叙伝みたいなもんだといっていた著者が、実はKKKの幹部にまでなっていたSupremacist、白人優越主義な人種差別者だった。

 大学院で先住民について研究しながら、現代先住民問題については、まぁ けっこう理解しつつあるかな、なんて思ってたハマンダは、作者について知らなかったので驚いております。というか、ショック極まりない。一番好きやった本やからね。

アメリカ先住民の方々がこの本をものすごく批判している、と上にあげたサイトは言っている。もっともだと思います。「インディアン」という「モノ」をネタにして差別主義者が金儲けをすることに当の本人たちであるアメリカ先住民が反対するのはよくわかります。

 私自身、あかんもんはあかん! という気持ちももちろんあります。

しかし ふと思ったのは、自叙伝として宣伝していることに関しての批判。本の内容は子供時代で終わっている。

 KKKの幹部になり白人優越主義に走っていたのはその後なんじゃないだろうか?

あくまで仮説ですが、幼少時代は(本に書かれた通りかはもちろん疑問だが)、先住民の伝統的生活に近いもので生き、その後様々なことが起こり、後に白人優越主義になっていった、と。例えば、先住民の血をひいてるがゆえに差別と受けたりした、とか。差別された経験から、生きていくには同化するしかない、と苦渋の決断をされ、自らのアイデンティティーを隠すようにしながら社会に溶け込んでいった方々というのは、過去にも現代にも世界中にたくさんおられると思う。

著者の話に戻る。しかし、KKKのメンバーというのはすべてが白人系の人々というわけではない。KKKのような極人種差別主義グループには、黒人を差別することによって、自らの立場を確かめようとした先住民のメンバーもいた。

今もあるCherokee Nationにあるチェロキー法には、黒人と結婚したらCherokee Nationのメンバーとしての権利を失う、とあるそうだ(3年前にとったクラスで教わりました。現在どうなっているかはわかりませんが、少なくとも3 年前まではそのような文があった)もし著者が、本人が言うようにチェロキーの人だったならば、(メインとして黒人を対象にした)人種差別グループであるKKKに入っていたのは、別に不思議ではないんじゃないだろうか?

そして先週の日記に書いたように、北米北西海岸部の先住民社会には、ヨーロッパ人の影響がある前から独自に発達させた奴隷制が存在した。奴隷は主に女性で、奴隷が供給する労働からできた生産物で首長たちは地位を確立していた。いらなくなったら奴隷は殺されたり交易にだされて「処理」されていたようだ。

 リトルツリーのを書いた著者が実はこんな人だった、というのを知ることはとても大事だと思う。著者について知っているのと知らないので、この本の伝えるものが全く変わると思うから。

しかし、「極人種差別白人優越主義者が金儲けのためにこんな本を書いた。この偽善者め」、と結果だけを見るよりかは、なぜそうなったかと考えたとき、私たちは先住民(先住民文化と共に生きる人、先住民の血を引く人)をとりまく社会背景などにも思いをめぐらすことができ、現代アメリカ先住民についてのさらなる理解をでるんじゃないでしょうか、と思う。

外部の我々は客観的に見たとき、物事が「白か黒か」のような極端論ではなく、グレイパートがあることも知るべき、と思うべきではないだろうか。